「文學界」の「インターネットとアーカイブ」

今年はブログを書こう、日々の雑感や日記を書き留めておこう、と思い年始にテキストベースの構成にサイトを変更したというのに、もう6ヶ月もここに書いていない有り様である。

いや、一度書いていた。が、こんなだらだらとした日記を書いてどうするんだと思い、非公開にしていたのだった。今読んで、まぁ別にいいだろうと思えたので改めて公開しておく。5月に大阪に出張に行ったときのものだ。夜に暇を持て余して記録にと書いてみたのだろう。

この日記を読み返しても思うのだが、もうほとんどのことを忘れている。この日の朝がどんなだったか、乗ったバスの具合がどうだったか、どんな仕事を車内でしたかも覚えていない。かろうじてこの夜の楽しい食事と、ビールを飲んだバーを覚えているくらいだ。

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日記が書けない。これにはいくつか思い当たるフシがあって、一番大きなものは、だいたい仕事で書き物に追われているということだ。書かなければいけないものがあるのに、自分のことをつらつら書くというのは、ちょっと後ろめたいし、クライアントに「そんなもの書く暇があるなら原稿書いてくれ」と思われたくない。ただ困ったことに、書かなければいけないものがあるときほど、自分の身の回りで書きたいことが出てくる傾向が確実にある。

それは単なる現実逃避なのかもしれない。そして肝心の仕事の原稿が終わると、ほかに文章を書きたい欲も失せてしまって、だらだらとNETFLIXなどを見てしまう(最近いまさらながら「プリズン・ブレイク」にはまってしまって、シーズン1を見終えたところで、続きを見るか悩んでいるところ)。なんでこんなに、文を書くことのキャパシティが少なくなってしまったのだろう。

ことは文章に限ったことではないのかもしれない。最近ではInstagramの投稿も億劫だし、Twitterにどうでもいいことを書かなくなった。なんとなくだけど、SNSに頻繁に投稿していない人のほうが、自分のためにちゃんと時間を使えている人であって、豊かに生きているという実感が最近は強くなっていて、そういう人の生き方であったり、暮らしの方に興味がある。雑誌とか、ちゃんと編集の行き届いたメディアはかつてこういうものを伝えてくれたのだろうけど、インフルエンサーばかり起用するようになってからは「楽しさ」ばかりが前面に押し出されてきていて、豊かさからどんどん遠くなっていると感じる。

昔はブログをまめに書いていた。書こうとして書くというより、書くことが生活の一部になっていた。今、SNSをチェックしたり投稿するのと同じような自然さで、それなりの文章を書いていたものだ。それがなぜ書けなくなってしまったのか。

あの頃、ブログというのはほとんど自分のために書いていた。アーカイブとして残しおこうとか人を喜ばせようとか合目的なものではなかった。書いている時間はどこか瞑想的であって、書くことがそもそも楽しかった。インターネットは世界に開かれたオープンな場所でありつつも、個人ブログというのは極めてひっそりとしたもので、世界の誰かが見ているかもしれないという巨視的な考えとは無縁でいられた。

今日読んだ「文學界」は「インターネットとアーカイブ」が特集で、読んでいくうちにブログを書いていたころの楽しさを少し思い出した。そしてこんな文章を書きはじめてしまったのだ。

phaさんの「インターネットが現実になるまで」の、

昔は「リアルで言いにくい話をネットで言う」という感じだったのに、今は逆転して「ネットで言いにくい話をリアルでする」という感じになってしまった(P.198)

藤谷千明さんの「良くも悪くもスパイダー・ウェブ」は、ネット上の空間で文章を書いてお金をもらったことのある人なら大きく頷けるような話がいくつもでてくる。

かつてのわたしは、インターネットで「個人の感想」を語り合うことを自由の象徴みたいに感じていた。いまや「個人の感想」とは「価値のない情報です」という意味でしかない。「それってあなたの感想ですよね?」が論破と呼ばれる世界。わたしは「あなたの感想」こそが読みたかったのに。(P.204)

その後特集は著名人たちの「あの人のブックマーク」というページに移っていく。主に2000-2005年くらいまで(つまりSNS登場前ということか)に存在したテキストベースのウェブサイトが取り上げられている。そしてその多くがもう失われている。

アーカイブ性がウェブの美点のひとつだったはずだけれど、逆説的にウェブに載せた文章や写真や動画は失われやすい。新聞社のサイトなんてその最たるもので、数年前のニュース記事にしてすでに中身は読めない(だったらタイトルを検索で引っかかるようにするなよ! と毎回怒りがこみ上げる)。自分がかつてあんなにも書き溜めていたブログも、いつのまにかどこかに行ってしまった。ブログサービスが終了したとかで。少なくないウェブ制作会社が、アーカイブを保存するためだけに巨額の費用を請求していることも社会人になってから知った。

先日、雑誌の原稿を書くために調べ物をしていて、図書館の閉架から司書さんが持ってきてくれた資料は、『日光名所圖會』という明治時代のものだった。自分の語彙と漢字力の問題で本当にぎりぎり、かろうじて読めて理解できる内容だったけれど、大いに助けられた。でもウェブに書かれたもので、100年後も読めるものは一体どれだけあるんだろうか。自分がウェブメディアで書いてきた文章はまず間違いなく残っていないだろうと思うと、なんだか暗い気持ちになる。

「文學界」のどの記事だったか忘れてしまったけれど、かつてブログが流行っていた頃は、雲の写真を載せているだけのブログが多かったと書かれていた。それで思い出したけど、これ、僕もやっていた。半ば義務になっていて、毎日ニコンのD70で撮った空の写真に一言添えて投稿していた。どうしてもカメラを持ち出せない日(大学生にもそれなりに忙しい日というのはある)は、今ではガラケーと呼ばれる携帯電話のしょぼいカメラで撮った写真を投稿していたが、そんな時は気落ちするのだった。

半年以上はそれが続いたと思う。今でも、写真の数点はなんとなく思い出せる。その時の心境も。けれどそのブログはもう散逸してしまって、やっぱり見返すことはできない。

それで、なんとなく、あの雲の写真のように文章を書き溜めていきたいなと改めて思うのだった。誰に読んでもらうでもなく、自分のために。そんなことを言ったら、こんなwebではなくて、秘密の日記帳にでも書きなさいと思われるかもしれないけれど、ブログを書くこと自体が楽しいという経験をした世代でもあるから、そこからはなかなか離れられない。完全に自分のためだけに書く文章が、ネットの空間では成立しないことは理解しつつ、それでもそれを目指してやっていきたい。

問題は、次回の投稿がいつになるかだ。