年末年始

2023年12月24日に肋骨にヒビが入り、日常生活に不自由しながら年末年始を過ごしている。外へ遊びに行くほどの体力もなく、ただ家に留まっていないといけないので、本を読んだり、映画を観たりしていた。

こうやって時間ができるといつも日記を書こうと思うのだが、この10年くらいとんと続かなくなってしまった。度々に感じたことを書き留めておきたいと思いつつ、wordpressのログインが面倒で個人ブログに簡単なことを書く気も起こらず、かといってTwitter、Xは少しずつ仕事のためのアカウントになってきてしまっていて個人的なことを書く場所でもなくなってしまった。Instagramは写真が無ければ投稿できないし、期待していたスレッズも「おすすめ」から開くせいで見たくもないアカウントの見たくもない投稿が最初に表示されるのに辟易して、書きたい気持ちが削がれる。そんな折にふとこの静かなインターネットをみつけたので、とりあえず書き始めた次第。いつまで続くかはわからない(というか多分続かない)が、気楽に書いていきたいと思う。

年末にかけて宮本常一本を読んだ。「今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる」(講談社現代新書)と「『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー」(黒鳥社)。相当面白かった。ここに挙げられた土地を自転車で旅してみたいと思った。

ヒビの入った肋骨でひいひい言いながら、12/26は上京して某スポーツ放送局の実況に夜臨んだわけだけれど、体が弱った状態で年末の都内を歩くのは恐怖を覚えた。人が多すぎて、不用意だ。実況は反省点も多いが、なんとかつつがなく終えられたのではないか。生放送を終えた後の虚脱感と達成感がないまぜになったあの感覚はいいものだ。久々に味わった。有明に一泊して、翌日はすぐ帰路につく。バスタ新宿に最寄りの改札口の中に本屋があって、ここで本を買って高速バスに乗るのはルーティンとしてありだ。さすが都心の本屋というべきか、こんな省スペース本屋なのに面白い本が揃っている。買ったのは梅棹忠夫の「文明の生態史観」と「ふらり珍地名の旅」(ちくま文庫)。梅棹先生の本はかつて読んで感銘を受けたものだけれど、いま手元に無いのでつい買ってしまった。2023年秋に出たばかりの増補新版で、特別に収録された「海と日本文明」が面白そうだったのだ。

年明け、「海と日本文明」を読んだけれどめちゃくちゃ面白い。そして宮本常一の本とつながる観点があって、改めて読書の楽しみとはこうした連続性にあると感じる。何冊かを同時進行で読める時間があることが、僕にとっては読書の要件なのかもしれない。この勢いで宮本本をもう少し読んでおこうと思うのだった。地名の本は気楽に、ちょいちょい読めて面白い。いまの地名に残った漢字そのものから意味を推測するのはあまりうまくないのだと知る。だいたいが当て字のようで、その大元にある意味を知っていればもう少し地名の理解が深まりそうなので、ちょっと勉強したい。ツールでやったような旅もののポッドキャストを日本でもやりたいのだよね。

紅白歌合戦を見て泣きそうになった。なんか、上の世代も下の世代の歌手もまんべんなく楽しめるようになっていて、いよいよ紅白のメインターゲット年齢層に自分もなったのだと感じる。昔はどうしても退屈な歌手がたくさんいたものだけれど。

年始の能登の地震にはがんと来た。富山のあの人は無事だろうか。青春時代を過ごした上越が酷いことになっているのも、映像を見るたび心が痛む。何かできることはないかと、過去の記事を引っ張り出そうかと思っている。箱根駅伝も前ほど熱心に見ることはないが、サッポロのCMに泣かされる。過去の名選手たちが駅の構内を歩いていくもの。同時に、日本のスポーツ実況における「感動ナラティブ」はここが元凶だよなとも思う。いい側面もあるのだけど、どうもパフォーマンスや戦略といったスポーツ性よりも人間ドラマに重きを起きすぎる気がする。日本の伝統種目を近代スポーツとして見ることがそもそも難しいのかもしれないが。とはいえ自分もこうした実況が好きなのも事実だ。

1月の初旬はとにかく執筆に費やすつもりだ。遅々としているが、いよいよ終わらせないといけない重いものがひとつある。書くことに疲れて他のことを書きたくなるかはわからないけれど、もしかしたら息抜きにここで書くかも。しれない。