シング・シング・シング 内蒙古自治区訪問記 <中>

シング・シング・シング 内蒙古自治区訪問記 <上> からの続き

北京からたった1時間、しかし機窓から見えた広漠たる光景と、英語すら聞こえてこない国内線のためか、世界の果てに来たように感じた錫林浩特。果たしてそこに待っていたのは「ゆうた」とひらがなで書かれた紙を掲げる男。新妻をその故郷へ迎えに行かねばならぬフスリトが、自分の友人を遣いにくれていたのだった。

ウリラガさん、という名のその人は流暢な日本語を話した。外国語が巧みな人に共通の、人当たりの良さ、快活さ、好奇心の旺盛さをこの人も兼ね備えていた。促されるままに、乗り込んだのは彼のトヨタ・カローラ。「まずは、朝食を食べましょう」

旅に出たなら、地元民でにぎわう食堂に行け、は洋の東西を問わず鉄則である。平日の朝9時前、地元の人々が外套を着込んだまま朝食をとる食堂の前でカローラは止まった。「モンゴル式のご飯を食べましょう」

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アジアの街を訪れる度に感じるのは、調度品や小物に極彩色が多いこと。ヴェトナムやマレーシアといった、高温多湿の国であればそれもさもありなん、といったところだが北の地、モンゴルにおいてもそうなのだった。ちょっとしたものの彩度が高い。

「これ、ミルクティー」

と言ってウリラガさんが手に取った彩度の高いジャーポットからは、褐色のお茶が湯気をたてながら椀に注がれていく。ミルクティーの彩度はそんなに高くなかった。世界のどこかには彩度の高いミルクティーというものがあるのだろうか。

ズズ……
「!」

彩度の高くないように見えるミルクティーは、しょっぱかった。甘いか、そうでなくとも苦味があるかと否応なく予想させた椀の中の茶は、しょっぱかった。面食らった。だが続いて出てきた羊の肉まんや揚げたパン、ヨーグルトのようなものを食しているうち、このしょっぱさが料理に合うことに気づかされた。少しでも口をつけると、次から次へと注がれるお茶。このミルクティーなくしてモンゴルの食事は語れないようだ。

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ここから、式場まではロードトリップ。ウリラガさんのカローラで南西へと向かう。フスリトの故郷であるその街まではここからおよそ200km先だという。広大な風景の中を突っ切る高速道路は、機内から見えた定規で引いた線だった。空からは、モンドリアンの絵画のように見えた線。今はその線上から広い空を見ている。

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車中ではウリラガさんと色々なことを話す。新潟に数年いたこと、多くの同胞とともに大学に通い、そのうちの一人がフスリトだったこと。内モンゴルに戻ってきてもう3年になること。日本が恋しくなることが度々あること。こちらでは家業の牧羊を継いでいること。日本で購入し、日本語表示のままになっているiPhoneで通話する彼の、iPhoneを握るその右手の筋とヒビは、彼が仕事の人であることを感じさせた。冷たい外気にさらされている手だ。

夏には草原であろう荒涼とした土地を抜けていく中で、羊や牛に混じってラクダも見た。馬は日本で見慣れているものより寸詰まりな体をしていて、首は長く見えた。通過する街では、幾組もの結婚式の一団を見た。そのうちのいくつかはモンゴル式で、いくつかは中国式だった。

僕らはともに30歳だった。婚列を横目にしながら、自然とお互いの結婚の話になる。僕らはともに独身だった。特に相手も予定もない男2人。結婚を考えたことのある相手がいたのは僕の方だったが、異性と誠実な付き合いをしてきたのは明らかに彼の方だった。カローラは漢民族の婚列をまた通り過ぎた。

漢民族との結婚もあるの?、との問いに彼は一般では最近増えている、と言ったうえで「でも僕は、付き合いたいとも思わない」と彼にしては珍しく語気と語調を強めてきっぱりと断じた。その横顔には、内モンゴルの人々が置かれた状況や心情というものの複雑さが浮かんでくるようだった。

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途中で下道を挟む200kmの道のりはそれなりに長いものだった。ついひと月前には北米でニューヨークへ向かう車内にいたことを思い出す。道は世界中に広がっている。道のない国はなく、ローマへ通じない道もたくさんあるのだ。果たしてこの道が向かう先、フスリトの故郷は上都という街だった。フランス語の「歌う」(Chante、シャント)と同じ発音に聞こえる。かつて中国が元と呼ばれていた時代、いま北京と呼ばれる都市を大都と呼び、その北に位置するため上都という名がついたのだという。

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かつてはチンギス・ハンやその孫がこの道を通って足繁く二つの都を往復した。馬に乗ってこの草原を駆け抜けたのだ。時間的にも空間的にも壮大な話だが、この風景を眼前にしているとなぜかすんなりと納得がいき、いまにもトヨタ・カローラを騎馬団が追い越していくような気さえした。あとで知ったのだったが、この上都は、イギリスの詩人コールリッジに「桃源郷」として歌われた地であった。幻想詩人としての彼が産み出した桃源郷という響きには日本語で聞いてもなおどこか東洋的理想の園といった趣を感じさせるが、それはこの元の栄光の都を指しているということだった。この道はローマには通じていないが、桃源郷へと通じているのだ。

上都はそれなりに大きな街だった。ホテルにはすでにフスリトの親戚一同が集まってきており、恭しく島国からの訪問者を出迎えてくれた。彼の父も母も、みな民族衣装に身を包んでいる。フスリトは奥さんの実家の街(ここから400kmくらい西にあると聞いた)へ彼女を迎えに行き、いま連れて戻ってくる途上だという。

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やがて何台もの車がやってくると、中からフスリトが出てきた。父と同じ服を着ている。新潟では普段着の彼しか見かけていなかったが、民族衣装がよく似合っている。彼の内モンゴルでの歴史がここに詰まっているような気がした。久々の再会を喜び合うと、これから親族みんなで昼食だからと近くの食堂へ。すでに民族衣装に身をまとった男たちが羊にむしゃぶりついている。見るからに強そうなお酒を真っ赤な顔をしながら飲んでいる。

卓上にはやっぱりミルクティーのジャーポットが用意されていて、羊の肉もそれは美味しいのだけれど、野菜の美味しさに目を見張った。ナムルのような漬物が美味しいのだった。みなが飲んでいる透明なお酒は焼酎のような味がして、度数は35%。これを割らずにストレートで飲む。内モンゴルのお酒で、ラベルには「草原王」とあった。いい名前だ。

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ことあるごとに座の誰かがグラスを掲げ、もう片方の手で乾杯を促す仕草をすると、場の全員がそれに応じる。いつか韓国の酒席で、やはり頻繁に乾杯をしたことを思い出した。

草原王を何杯飲んだか。新潟時代には酒の失態をフスリトには見せないでいたから、やや心配そうに「無理に飲まなくていいんだよ」と気を遣われる。フスリトは優しい男なのだ。僕は駄目な男なのだ。酒があればあるだけ飲んでしまう。しかもこの日は、いくら飲んでも尽きることはなく、いくら飲んでも倒れなさそうな豪傑ばかりと同席していたのだった。

やがてお開きになり(モンゴルの人々は、さっと席を立ってすっと帰ってしまうことがままあった。民族的なものかはわからないが、非常に潔くて僕はこの気質を気に入った)、夜までは自由な時間ができた。来る途中で聞いておいた川へ釣竿を持って出かけたが、気温は5℃ほど、ほろ酔いでキャスティングもおぼつかず、何よりも魚影のない水辺で長く遊ぶ気にはなれなかった。釣れなかった言い訳ととっていただいてもよろしい。釣りは明日、しっかりやることにする。

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夜ご飯は翌日の式が行われる会場で、中華式のディナーだった。ここも一族郎党みんなでそれぞれの卓を囲むのだが、その数たるや。目を丸くしている僕に、隣に座ったフスリトが「明日はもっと多いよ」と。

逆の隣にはフスリトの奥さんが座っている。いまは神戸で働いていて、とりわけ流暢な日本語を話す。今日一日のほとんどを内モンゴルで過ごしているはずだが、中国語はおろか英語も使っていない。世界の果てだと感じる地に来て、母国語を、それも世界でそこでしか通用しない言葉だけを使っているのは、なんとも不思議な感じだ。

ふとどこかのテーブルから歌が聞こえてきた。まろやかなテノールは、酔った男がいい調子で歌っているらしかった。それが終わると、また別のテーブルで歌が始まる。それが終わると、また別の歌が。内モンゴルでは、歌が人と人とを繋ぎ、酒席ではそれがとりわけ顕著らしかった。歌われるのは、モンゴル民謡だということで、伸びやかな低音でゆったりとした歌は、草原を蛇行しながら流れる大河を思わせた。どこか悲しい響きがあるところも含めて。

「あなたも歌っていいのよ?」と奥さん。「でも日本にはこういう習慣がないから戸惑うわよね」

卓を囲む、日本語を解さない奥さんの親類(彼女のお母さんは22人兄妹なのだとか)の女の子たちは「日本語の歌が聴きたい」と言っているらしかった。この卓にはお年頃の女の子も多いのだった。「そうだ、明日の私たちの式で何か歌ってくれない?もし良かったらだけどーー」

手ぶらで来た以上、断る理由は無かった。何かお祝いの気持ちを示したかったのもある。それに、世界の果てだと感じられる場所で歌をうたうというのはなんだか形而上学的だ。音痴な人間にもそういう機会はあるのだ。やれやれ、羊をめぐる冒険になるはずが、歌うたいの旅になるとは。

静かなベッドの中、草原王にやられた頭で明日何を歌うかを考える。シング・シング・シング。何を歌えばよいのだろうか。

<続く>