シング・シング・シング 内蒙古自治区訪問記 <上>

本来、人生にはたくさんの符合が満ちているものなのだ。

なんの気になしに手に取ったのは、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』だった。羽田空港の出発階の書店。旅に出るときは必ず一冊の小説を空港で求めてその伴侶とする僕の習慣は、特に理由もなく村上春樹の一冊を選んだ。別に『羊をめぐる冒険』でもよかったし、『ねじまき鳥』でもよかったけれど、なんとなくこの本にしたのだ。『村上さんのところ』という読者との質問回答集を読んだあとで、彼のなるべく人を傷つけない繊細さにいたく共感して、この著者の一冊にしようとは思っていた。

今思えば、『羊をめぐる冒険』ほど、いまの僕と符合する本はなかったのだ。僕はこれから、羊の国へ行くのだから。もちろんこれは実際的な意味で、村上世界のどこか現実的でユーモアだけが一人歩きしているワンダーワールド的な羊の国に行こうというのではない。ふと何かのきっかけで異世界に行くのではなく、ちゃんと航空券を携え入国審査を経て国境を越える旅。僕の行き先は、モンゴルなのだった。

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積み上げられた雪の黒ずみ方が春の到来を告げようとしている新潟の3月、それは僕の3年に及ぶ新潟生活の最後の日でもあったのだが、とにかくその日に僕はいつかモンゴルに行くことに決めた。同級の留学生、気骨ある彫刻に専心していたフスリトとの別れの時に、彼が結婚することがあったらその時は、国に行って祝福したいと伝えたのだった。別れ際の調子の弾みから出た言葉だったかもしれないが、実直にひたすらに、大木へとのみを打ち込んでいた彼らしく、その時に付き合っていた同国人の彼女と結婚することになったという。あの曇天の春の約束から4年が経とうとしていた。晴れて彼より、結婚式の日取りがメッセージで入った。2015年10月×日。式は内モンゴルにて。

内モンゴルと呼ばれ、モンゴルなのにモンゴルでない地域がある。ここもまた、歴史の恣意的な国境線に翻弄された土地であることを、この旅を通じて知ることになる。フスリトは、この内モンゴルの人間なのだった。

羽田のあっさりとした入国審査を経て(2020年にはこの国際ターミナルも大盛況となるのだろうか?)、機内で開いた『ダンス・ダンス・ダンス』は、物書きで生計を立てる男が主人公だった。さして書くことと仕事に喜びを見出せず、瑣末な日々の書き仕事を「文化的雪かき」と呼ぶ男。雪をかくイメージが、あの新潟時代の陰鬱な白銀世界を思い出させる。フスリトに会うために僕は今空の上にいて、それはあの頃僕らが暮らしていた新潟も、あの頃たくさんの雪を降らせた雲も眼下にあるのだった。北京、それがこの飛行機の行き先。

のみならず、この旅の行き先自体が中国なのだった。内モンゴルは、中国の内蒙古自治区であり、国としては中国に属す地域。中国にいくつかある民族自治区のひとつ内モンゴルは、モンゴル民族が暮らすモンゴルにしてモンゴルでない場所。

北京の空港に着いたのは、日がとっぷりと暮れてからだった。ここが中国の違う都市の空港だったとしてもその違いには気づけないだろう。夜の空港なんてどこも大差がない。地方の書店の新刊棚のようなものだ。北京からの国内線乗り継ぎが翌朝早くにしかない関係上、今夜は北京に一泊することになる。中国国内に出るのは初めてのこと。空港のインフォメーションカウンターではシンクロナイズド・スイミングの競技者のような髪型をしたすらりとした女性が、やや舌足らずながら淀みない英語でホテルの場所を教えてくれた。こうした類の母国語でない流暢な英語を聞く度に、僕は彼女がどこで英語を身につけたのだろうかと考えてしまう。上級の学校でテキストブックと豪州人教師による教えが彼女に息づいているのか、はたまたロス・アンジェルスあたりの西海岸で米国人との逢瀬のさなかに培われたのか……。一人旅だとこういうどうでもいいことを考えてしまう。端正な彼女を見ていても、サブウェイのサンドイッチを片手に夜な夜なクラブに踊りに行くような人には思われない。

窓から入ってくる風は日本のそれより一段と冷たい。やたらにクルマの多いハイウェーを走るタクシーは散々に迷った末、運転手さんのGoogle Mapのようなアプリがなんとか正解を教えてくれたおかげで目的の安ホテルへと到着したのだった。このアプリは一方通行の道へも平気で案内をしたりと端で見ていて精度の低さが目立った。Google Mapにすりゃいいのに、はこの国では通じないのだった。

Googleはこの国ではつながらない。TwitterもFacebookも、InstagramもLINEも。知ってはいたけれど、手の中のiPhoneが永遠に回転を止めない歯車のアイコンだけを表示するのを見るにつけ、現実に当局の規制というものがあるのだと実感する。こうしたSNSが繋がらないと、特にiPhoneを開く理由もないのだった。そもそもソーシャルメディアは苦手だ。繋がらないならそれはそれでいい。どうせあってないような繋がりなのだ。当局に規制される程度の。

『北京の憂鬱』という叙情溢れる曲を、かつて東大卒のイタリア文学者に教えて貰ったことがあって、その歌が聴きたくなる夜だった。安普請のベッドに横たわって明日から訪れる内モンゴルを想像する。

大型書店での立ち読み程度では、ほとんど内モンゴルの情報は手に入らない。ガイドブックの中国編に、申し訳程度に触れられてはいるが、明日飛行機が着く錫林浩特(シリンホト、と読む)についての記載は一切なかった。こんなにどんな街かも、どんな地域かも、どんな人たちが暮らしているのかもわからない場所へ行くのは本当に久しぶりのことだった。情報の出て来なささが、却って知らないままで訪れてみようという気にさせてくれた。そんな旅、この先の人生であと何回あるかはわからない。唯一の手がかりは、フスリトがあの頃丹念にのみを打ち続けた馬の彫像。制作発表の場において普段は口数少ない彼が、自分がモンゴル族であり、であるからこそ馬に対する敬意をもち馬をモチーフに彫刻をしているのだと主張したことを思い出す。「誇り」としか言いようのない静かなる存在意義。僕ももれなくぽかんと口を開けて聞いていたその場の一人だったが、誰一人この誇りの出自を知らないのだった。

早朝、すし詰めのバンで空港に着き、「国内線」で内モンゴルへと向かう。荷物検査で、愛想のない(しかしなぜ空港職員はどの国にいってもすべからく愛想がないのだろう?そういう世界規則でもあるのだろうか)検査官が怪訝な顔をして僕のルアーボックスを眺めていた時には冷や汗をかいたが、なんとか無事に通過した。針外し用のプライヤーは没収されたが。これで大物が掛かったら、針外しに手間取ることが決定したわけだ。

そういえば、この旅には釣り道具一式を持ってきていたのだった。何にも情報のない内モンゴルだが、モンゴルという響きは釣り人に強制的にタイメン(イトウ)を思い出させる。日本の小説家が晩年に訪れたその地。河は眠らないのだ。とはいえタイメンを釣るほどの装備もなく、八ヶ岳でイワナと遊ぶ道具だけを持って日本を発った。あるいはタイメンの陰に隠れがちなレノックトラウト、コクチマスが釣れればという目論見をもって。7月の韓国遠征では当然のように釣れなかったヨルモゴ(現地名)だが、ユーラシア大陸のこの魚、西端の韓国よりもモンゴルの原野を流れる河の方が釣れようとは間違った観測でもあるまい。

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北京からわずか1時間のフライトで錫林浩特へと着いた。着陸寸前の機窓から見える砂漠とも岩場ともつかない荒涼とした風景に、思わず息を飲んだ。白い糸ミミズのように見えるのは生活道路で、定規で引いたような一本線は高速道路らしかった。ようやく内モンゴルへと着いたのだ。

ゲートをくぐると、「ゆうた」とひらがなで書かれた紙を掲げて待っていてくれた人がいた。僕の「羊をめぐる冒険」はここから始まる。

(続く)