あの日のモンタルチーノ。泥にまみれて誰が誰かが分からない中で、控えめなガッツポーズだけが彼がカデル・エヴァンスであることを伝えていた。2010年のジロ・ディタリア。白い道はその高貴な名前に反して泥濘にまみれたチャンピオンを世に知らしめたのだった。

トスカーナ地方のこの辺りは、イタリアにおける平面芸術の総本山たるフィレンツェ、あるいは連日旅行者が傾いた搭をつまみ上げるピサといった街がつとに知られるところであるが、ワイン通ならモンタルチーノの名を知っていることであろうし、芸術に一言ある方ならかの万能天才レオナルドの出身こそこの地のヴィンチという村であることをご存知であろう。

しかし今回の旅の拠点は、シエナである。トスカーナ有数の都市としては知名度に欠ける印象があるのは、隣町にして史上最大のライバルであったフィレンツェの大きな存在がある。「花」という言葉をその発音に連想させるところのあるフィレンツェはイタリア・ルネサンスの栄華を体現したような華やかさを今日まで留めている。この街では、絶世の美を誇るヴィーナスが毎日その生の瞬間を露わにしているし、ウフィツィの別の一室では季節はいつでも春なのである。

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シエナという街を初めて教えてくれたのは辻啓であった。その前年まで住んでいたこの街のことを、メッセンジャーであった彼はイタリア気質そのままに、誇らしく語ってくれたのだった。まだツール・ド・フランスではランス・アームストロングが猛威を奮っていた頃の話。この年のジロは、パオロ・サヴォルデッリが密やかに2度目の優勝を遂げていた。

コロンビア人がジロを勝った今年。ガリレオ・ガリレイの名を持つピサの空港で出迎えてくれたのは、フォトグラファーになった辻啓であった。この日誕生日であった彼だが深夜100kmのドライブを厭わずにここピサまで迎えにきてくれたのだった。合流した我々が一路向かうのは、そうシエナである。

彼が知り合いに借りているというフォードのヘッドライドが闇に照らし出した標識には、「この先 Vinci」と書かれていた。

歴史あるイタリアの小村というのは、小高い丘の上にあるイメージである。要塞のごとく壁が張り巡らされ、数個の入り口が東西南北に開いているだけというような。この100kmのドライブの間にもいくつかそうした村々がライトアップされているのを遠目に見上げた。記憶が確かなら、かつてジロで通過したベルガモの街もそんな作りをしていたように思う。フランスにはそこまでこうした様式の村が多いという印象は無いが、リヨン近郊のペルージュという村はまったくこうした作りであった。中世の時代にペルージャからの移民が作った村だということだ。なるほど。

してみると、トスカーナは今でこそ広い空と大地の緩やかな起伏が牧歌的ではあるが、かつてはこうした小村がそれぞれに争いの相手であったのだろう。高台からは24時間監視の目が大地を見下ろしていたはずである。流血の歴史を経て今日この地が産出するワインは、赤が名高い。

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ピサから南東にクルマを走らせ、高台にひときわ大きい暖色の城塞都市が見えてきたら、それがシエナである。旅行者は城壁の外から街に入るのに急峻な階段を登る必要はない。歴史ある城壁をエスカレーターが走っている。時代は21世紀である。ハイテクとローテクは共存する。もちろん、鉄道はこの街の中まで入ることはできず、城壁に外付けするばかりである。

この外界との明確な区別は、我が国においては見られないもので、それがゆえにこの地の人々の強烈な郷土愛、誇りが生まれているように思う。辻啓曰く、シエナは「イタリアで最も治安のよい街」とのことでなるほど深夜のこの時間帯でもまばらに一人歩きの女性の姿も見える。シエナのこの治安の良さは、住人が皆、誰が誰かをわかっているムラ社会ゆえであるとも。核家族化によって、日本の都市部のみならず地方までもが失い始めている地域社会のシステムがここには息づいている。

折しも僕が訪れたのは、この地域性が最高潮に達する数日間だった。
地域共同体の根幹にあって、共同体の存在理由を支えるもの、それはお祭り。

シエナにとって一年で最大のお祭り「パリオ」はこの翌々日に迫っていた。

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翌朝、時差ボケの頭をクリアにしてくれたのは、清澄な朝の光に照らされたシエナの街並。背こそ高くないものの、密集している建物の隙間から差し込んでくる光は長く伸び、石畳のそれぞれを浮かび上がらせている。そこを歩く一団は老若男女、お揃いのスカーフをまとい同じ方向へ歩いている。向かう先はカンポ広場。世界で最も美しい広場、としシエナ人が言う(最も、イタリアのどの街の人間も自分の街の広場を最も美しいと言うであろうが)ここは、自転車ロードレースを観る方にならストラーデ・ビアンケのゴール地点と言った方が通りがいいかもしれない。

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パリオは、まさにこのカンポ広場を舞台に行なわれる。広々とした広場ではあるが、多くの人で埋め尽くされていてサイズ感がいまひとつ掴めない。密集と熱気に少しだけ触れてアパートへと戻った。パリオとは何かを、啓兄に訊く。

パリオは、シエナの中の17ある行政区画(コントラーダと呼ぶ)のそれぞれが馬のレースで競うお祭りで、そのレースに勝利することは住人にとって悲願であり名誉なのだという。馬やジョッキーの選定段階から街はざわつき(ちょうど昨日がその日だったようだ)、レースにそのボルテージは最高潮に達する。

興味深いのは、各コントラーダのシンボル。僕が滞在する啓兄のアパートがあるのは、サンフランチェスコ門にほど近い「ブロッコ」の区域。これが意味するものは、「芋虫」であり、なるほどそこかしこの壁に緑と黄色の芋虫のレリーフが散見される。それにしても芋虫とは、強さの象徴にはなりえず、優美さのそれにもなれない不思議なモチーフだ……と思っていたら、他のコントラーダもなかなかのものだった。

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ワシ、ヒョウ、サイ、オオカミ(雌)あたりはわかる。強さも気品も湛えている。アヒル、カメ、キリンとなると少し穏やかさが目立つようになり、芋虫、カタツムリ、貝までくるとモチーフ格差を嘆きたくもなってくる。しかし真骨頂はこれからで、ユニコーン、ドラゴンという空想上の生き物があるかと思えば、森や波といった自然、そして終いには塔といった人工物になる始末である。

このモチーフの整合性の無さは、かつてフーコーが参照したボルヘスの中国の生物図鑑のカテゴリー分けを思い出さないでもいられないが、個を示す一般名詞から抽象を示す名詞までを同列に並べるその精神性にはかなり中世的なものがあると感じられた。内陸にあるシエナがいかにして波を名指し、コントラーダのモチーフに据えたのか興味は尽きないところではあるが、帰国後に知ったところでは彼のクロード・レヴィ=ストロース御大にもパリオ祭への言及があるということで、この祭典が人間性を称揚するものであることを再確認した。

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芋虫のモチーフは、デザインとしては秀逸なもので、スカーフを旅の記念に求めたのだった。スカーフを身につけて街を練り歩くだけで土地の人間に近づいた気になるというのは、浅薄な旅の喜びだとは思いつつも、やっぱり地球人であることを認められような、嬉しい気持ちになるもので。

さて、このシエナ、自転車に乗るために訪れたことを忘れてはいない。トスカーナの丘陵地帯と、燦々と輝く太陽がライドへと誘ってくれる。朝食を食べたら、身支度を整えてライドに出よう。ガイドは、辻啓。これ以上の案内役はいない。

2日間をかけて走ったトスカーナのロードライドの模様は、後半に続きます。

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